NEXT代表の竹林です。
今日は、みなさんにアドラー心理学をご紹介したいと思います。
アドラー心理学ってなに?
アドラー心理学とは、オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラー(Alfred Adler)が提唱した、人間の行動や心理を「目的」と「人間関係」から紐解く心理学で、正式には「個人心理学(インディビジュアル・サイコロジー)」といいます。
数年前、「嫌われる勇気」という書籍で大ブームを巻き起こし、子育てや仕事の人間関係などに活かせると話題になりました。アドラー心理学は、自己啓発の源流とも言われており、大抵の自己啓発本や子育て本の根底の考え方になっています。要するに、これ1つ理解すれば、多くのものに応用可能な考え方・ものの見方を得られるという訳です。
今日はその中から、「課題の分離」というテーマについて、ご紹介したいと思います。
課題の分離とは?
「課題の分離」とは、アドラー心理学における理論の1つです。ここでいう「課題」というのは、目の前の問題ややらなければならないことです。この課題には、持ち主がいます。持ち主というのは、誰が課題の結果を最終的に引き受けるのかということです。
自分の課題が解決されないことについて、環境や他人のせいにしても解決しません。また、反対に、自分の課題ではないのに、他人の課題に首を突っ込むと、自身はそれに解決の手段を持ちませんから、解決できずにイライラしたりしてしまう訳です。
こうして文字で見れば当たり前のことですが、誰の課題かをはっきりさせないままに、首を突っ込んでしまって、勝手に悩んでいるというのが意外にも多いのです。
馬と水辺の話
イギリスには、「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざがあるそうです。
例えば、喉が渇いている馬を見つけたとき、自分にできることは水辺に連れていくこと、水を準備してあげることだけです。しかし、水を飲むか飲まないかは、当の馬次第です。口を開けて、ゴクンと飲み込むのは、馬でなければできません。

水に例えると簡単なことなのですが、つい子どものことや仕事のことになると、すべて自分がコントロールできて、言った通り動くのが当然だという感覚になってしまいます。
馬に水を用意してあげることまでは、自分の責任ですが、水を飲まないことによる結果を引き受けるのは馬ですから、水を飲み込むのは馬の課題です。
水を飲むかどうかは、馬の課題であって、自分の課題ではないのです。
「課題の分離」が正しくされていないと、「〜してあげたのに」という気持ちになります。アドラー心理学は、この”のに“に、課題を混同している危険サインが表現されていると考えます。
「課題の分離」を子育てに置き換える
例えば、子どもがなかなか勉強に取り組まないとします。
これを先ほどの馬と水のモデルに照らしながら考えてみましょう。
私たちがすべきは、勉強に興味が向くように関わりを続けること、勉強できる環境を作り続けること、そう水辺に連れていくことです。そこから先の勉強を実際にするかどうかは、本人の課題です。
なぜなら、勉強しなかったという結果に対して、責任を負うのは親ではなく本人だから、でしたね。
勉強しない子どもを見て、感情を乱してしまうことは、親の課題です。なぜなら感情の乱れで起きる不和の結果が返ってくる先は親だからです。親が感情を乱すのは、子どもは自分の言う通りに行動すべきだという支配欲や学業成績に偏重した評価づけなどがあげられます。でも、そうした結果の責任を負うのは子どもたち本人です。親が子どもの課題に関与すればするほど、課題の所有権がわかりにくくなり、子どもは自分で動かなくなります。
子どもに対しては「勉強は自分の課題である」という所有権をはっきり理解させ、その価値を実感させることです。これ自体は親の課題であり、私たち教育者の課題でもあると思っています。
一度で勉強の価値をうまく伝えられなくても、伝えられるように何度も方法を変えて伝えてみましょう。語ってダメなら、図鑑や本に触れさせる、博物館や美術館に行く、歴史的な場所を見に行く、学校で習う内容を体験させたり、直接見せるなど、直接的な勉強以外の方法でもいいのです。一度やってダメだからとするのではなく、諦めずに続けましょう。前はダメだった方法も、時間を空けたり、順番が変われば伝わるかもしれません。
私たちがクイズ番組を楽しめたり、観光スポットの歴史や文化を楽しいと感じるように、もともと人には知る喜びを感じるセンサーが備わっています。私たちは、教育現場からそれをつくれるように取り組んでいますが、ぜひご家庭でも様々な方法で子どもたちにそれを感じさせられるような関わりをお願いしたいと思っています。
放任と「課題の分離」は違う
「課題の分離」は、相手の課題と自分の課題を分離するという考え方ですから、相手への干渉はしないという放任的な考えを肯定しているようにも聞こえます。しかし、相手へ干渉しなければならないと自覚した瞬間に、それは自分の課題となります。先ほどの馬と水の例えに当てはめるなら、自分が水辺に連れて行ったり、水を用意してあげることができたのにも関わらず、それをしなかったことで馬が体調を崩したり、動けなくなったとします。そのときに、感じる感情も、移動手段を失う不便も、自分にも引き取るものがあるはずです。それが全く問題ないのなら、不干渉も正しい判断かもしれません。そうでないのなら、干渉することも自分の課題だということです。
ただし、自らの課題として引き受け、関わる上では、それによって生じる問題や結果を受け入れる覚悟が必要です。私が助けてあげるのではなく、私もまた自分の課題として取り組むのです。私が偉いから、優しいからという感覚で関わってはいけません。
魚を釣ってあげるのではなく、魚の釣り方を教える
昔は先進国・後進国という区分けをしていましたが、いまでは後進国とは言わず「発展途上国」というようになりましたよね。子どもたちや後輩も同じです。できない人ではなく、できるようになっている途中で、成長途中にあるという見方が大切です。そこでは子どもたちの課題と親の課題を明確に線引きし、子どもたちに課題を乗り越えさせてあげなければいけません。
魚を釣ってあげるのではなく、釣り方を教えるのです。食い扶持に困らないように、釣り方をマスターしてもらえるまでは、親や教育者は手を変え品を変え、どことん釣り方をマスターしてもらえるようにかかわらなければなりません。釣り方を教えるのが、私たち大人の課題です。釣り方を覚えるのは、子どもたちの課題です。